2011年5月14日土曜日

宗達にデザイン感覚の現代的原型を見る

酒井抱一生誕250年ということで、今年の1月から3月にかけて東京の各所で特別展がありました。畠山記念館と出光美術館へ始めて行ってきました。酒井抱一については、またいつか書くとして、今回は、このブログで前に書いた光悦と宗達による「鹿下絵和歌巻」に関連して、その続きを書きたいと思います。

2010年7月2日金曜日

茶の湯から何がわかるか

伊藤左千夫に『茶の湯の手帳』という文章がある。僕はこの中には2つのことが述べられていると思う。ひとつは、人がその生活の中で品格をや尊厳を保つために茶の湯は優れた手法のひとつであるという点。

もうひとつは、それは日常の中で実践されるべきで、だとすれば食事という万人に不可欠でしかも健康に関わってくる行為の中に茶の湯的な所作や精神を取り入れるのがよいだろうということ。そのように僕は読んだ。

ここではその前半で述べられているところの「品格」や「尊厳」について取り上げていくつもりだ。なお、後半の主張(日常の食事に茶の湯の精神を取り入れる)というのは何か無理があるように感じる主張だ。これは、おそらく伊藤左千夫がこの文章を書いた当時の日本の食生活の貧相さと、西洋には食事のマナーの習慣があるという現実を対比せざるを得なかった筆者の想いを反映するものだったのだろうということらしい。今となってはそこまで考える必要はないだろう。

さて、茶の湯を取り入れた生活では、その生活に品性や品格、尊厳といったものをもたらすことができるだろうか。それを、ここでの茶の湯へのアプローチにおけるひとつの課題としたい。言い換えれば、人にとって品格や尊厳とはなになのかということを茶の湯をとおして考えるということだ。例えば、伊藤左千夫は当時でさえ俗物と化した当時の茶人たちの批判もしている。つまり、品格や尊厳を重視する茶人といえども俗人と化すことはあるのだから、非常に微妙な領域でその線引きのようなものがあるよに思われる。その微妙さのためか、茶の湯を正しく実践すればするほど茶の湯そのものについて語ることはできないとも彼は書いている。

この日記は、僕なりに茶の湯というものを追及して行く過程を記述するものである。しかし、そうでありながら以上のような理由で、おそらくは茶の湯そのものについては何の意味のあることも書けないだろうとも思うのである。しかし、僕はそれをとおして人間の品格や尊厳というものが垣間見えるような気がしている。多分、茶の湯に限らずあらゆる「道」にそれはいえることなのだろう。

2009年9月20日日曜日

『鹿下絵和歌巻』

本阿弥光悦と俵屋宗達のコラボレーション作品『鹿下絵和歌巻』。現在、神戸市立博物館で開催されている「シアトル美術館展」で、この作品を見る機会を得た。この作品はシアトル美術館のウェブサイトでも見ることができる。≫Seattle Art Museum : Dear Scroll なおウェッブよりも実物の方が作品のリズム感が直に感じられ本当にすばらしい。ここでは、こういうものがあるということだけ伝えられれば、僕として述べたいことはもう十分言ったという感じなのだが、以下にその他のことについても少し記しておこう。